物語やるTRPGの世界、あるいは世界を作ると言うこと・応用編(TRPGと物語(x))

■物語やるTRPGが他のストーリーメディアと違うところは、参加型の度合いが強いということである。それは主人公や様々な役柄を演じるプレイヤーキャラクターを操作すると言うことであり、同時にプレイヤーという立場でそれぞれの世界を俯瞰できる、ということからも裏打ちされる。プレイヤーは物語を味わい、感情移入し、同時に物語の展開を操作し、発見し、作り出すということを行うことが許され、また求められる。微妙に前項から内容がつながるのだが、実に、シナリオに表されたマスターが提示する世界、から、プレイヤーが物語として受容していくものを見つけ出していく、のが物語やるTRPGというものである。*1

■しかし漠然と世界観を示して、さあ切り出せ、物語を見つけてみよ、と即興型の遊びであるTRPGで言い出しても、それはちょっとむつかしい。*2そこで様々な要素によって、プレイヤーの行動に網(創造的制約)をかけていくことが必要となる。シナリオは元々そういうものだし、ルールと世界の大きな責務でもある。

TRPGにはルールによって様々なジャンルが指定されている。実は、ジャンルというのは世界の切り出し方の概略に他ならない。ジャンルに始まり、世界で様々に規定されるものにあらかじめキャラクターたちは制限されている。そして、プレイヤーたちは、世界で示された課題と、それに対するキャラクターの用い方、様々な葛藤を見つけ解決していこうとすること、で物語を駆動していくことになる。物語には、葛藤を繰り返し、時にはそれに破れながら、次第に大きな葛藤に直面し、乗り越えて、あるいは敗れていく、という巨大なお約束があるので、この大事な葛藤をどういうふうに生み出していくか、そして葛藤の乗り越え方をルールや無法地帯を通じてどう発見していってもらうか、というのがマスターとプレイヤーとルールデザイナーの腕の見せ所である。

■葛藤が魅力的であるためには、そしてなにより物語を駆動するものであるためには、世界にある程度の重層性が必要なのは議論を待たない。以下、物語やるTRPGとしてきわめて秀逸な作品の一つであるFローズの戦闘ルールを例に出して書いてみる。

■Fローズの戦闘ルールはもうそのまんまドラマになっている。人を斬ること自体は、運動とかが高かったり、終始剣*3のスキルとかを持っていればそう難しいことではない。けれども少々の実力差はスペシャルヒットで簡単に覆るし、斬ったら相手の感情投射を受ける。この感情投射がくせ者で、怒りや哀しみがあっという間に場にあふれ、しばしば死にゆくものの思いによって戦場は混沌を示すようになる。…様々な思いをやりとりすることが主眼となるこのルール。戦闘という思いのやりとりは、笑えることも、恐怖で凍り付くことも、思わず黙り込んでしまうこともある、ドラマの現場なのだ。

■敵を倒すだけじゃない要素をルールから持ち込んだことで、Fローズの戦闘シーンは様々な葛藤を内包する構造を持った。以下、いくつか列挙してみよう。

  1. 戦いの発生自体が高リスクであり、戦いをさける手段があるかどうかの葛藤。
  2. 戦いの発生する恐れのある現場で、感情値を一定レベルに保つための行動選択、という葛藤。思いのままにならない思いを制御下に納めるための、様々な手段。(感情共有とか、瞑想とか、魔法とか)
  3. 戦いから得られるものは怒りや憎しみや哀しみ。けれど思いを受け取るだけに、その戦いが正当なものかどうかを問い直させられるという葛藤も生じる。たとえ正義の戦いであったとしても、キャラクターの感情がその行為に耐えられないと言うことだってあり得るのだ!
  4. (もちろん、敵味方が様々に入り交じった戦闘であればさらに葛藤は深化する。たとえばキャラクターたちの宿敵が、シナリオのヒロインの思い人であったら? 倒すことで事件は解決するかも知れないが、ヒロインはルール通りに感情の暴走ないしは喪失を起こし、キャラクターたちに襲いかかるか、あるいは死んでしまうかも知れない。ルール通りに、ね。)

■戦闘の中にこれだけの葛藤を、それも思わずドラマを発見させるような葛藤を、シンプルなルールで埋め込んでいるところにすごみがある*4。そしてこのルールは、思いと魔法(イメージ)をやりとりする魅力的な世界の法則を抜きに、生み出されるはずもない。…そこには、実に雑魚敵として一撃で殺されるようなモンスターにすらそれなりの思いが宿っていることの、痛切な表現さえあるのだ*5

■物語やるTRPGには魅力的な葛藤が必須である。そしてそれは、ある行動を絶対の盤石な正義でなく、重層的な葛藤の中におくことで生み出すことができる*6。あとは世界とその切り出し方の中に、どこにどうドラマを見つけるかを、まずシステムデザイナーが必死扱いて見つけていくしかないのだろう。もちろん、それがいちいち暗い思考に陥る内容である必要はないけどね。

■そこには、愛憎といえるまでの世界へのコミットもまた必要とされる。そして自らのエゴに従って“言いたいこととやらを表現する”よりも、マスターやデザイナーが“見つけ出してほしいことを自ずから見つけてもらえるような世界”を作ることはずっとムツカシイ。そこには“言いたいこととやら”よりも遙かな深みと、幅の広さを必要とされる。ぶっちゃけ、読書量や人生経験が直接現れる部分でもある*7

■なんか精神論ちっくになっちゃったけど、自分的にはまとまってるのでとりあえずおいておきます。

■さて、次回は物語やるTRPGにおけるマスターはどうあるべきか、ないしはマスターに何をしていただくものとしてルールはあるべきか、を考える必要がありそうなのである。かつてTRPGのルールはそういったことを明文化しなさすぎたと思う、という反省もこめて、続く。

*1:もちろん吟遊詩人なストーリー決めうちでできるものもあるだろうし、本当にプレイヤーが創作しないとぴくりとも動かないものもある。それはシステムの性質にもよるのだけど、マスターの持つシナリオの懐の深さにもよる。プレイヤーがどんな物語を発見してくれるかはマスターの重要な楽しみだし、だからがんばってシナリオだって作るんだけどね。

*2:まあでも、そういう遊び方もあるよね。キャンペーンプレイに織り込むんなら、それでも十分ゲームにできるし。TRPGエチュードの一種だ、ていう向きの人には、そんなことは常識なのかも知れないね。でもエチュードであるための前提を築くのはなかなか難しいゾ、と言っておきたいところ(笑)。…でもでもでも、エチュード的じゃないキャンペーンプレイの最終回って萎える、つーか失敗かも。

*3:エセイセヴァとも。ユルセルウムのイーヴォ流抜刀術、神速の剣(笑)である。始まりにして終わりの剣。一撃にして戦いを終わらせることこそをその主眼とする。鍔鳴りで周囲一帯を一撃で無力化する奥義とか、とってもカッコイイ(うっとり)。

*4:別にモンスターをぶち殺すのにいちいち葛藤するルールだからすばらしい、といっているわけではない。あくまで魅力的な葛藤の一例としてFローズをだしてみました。戦闘に何の葛藤もいらないルールを遊ぶのも時々疲れるが、それはまた別の話。

*5:もっとも、であるからこそ、ユルセルウムには人間が悪と読んで差し支えのない存在が用意されてもいる。こういう部分も含めて、ユルセルウムはきわめて完成度が高い“TRPGの”世界である。

*6:言葉で言うのは簡単だ(笑)

*7:ここで言いたいこととやらをやりたいなら小説でも書いてろ、という人もいるんだろうが、言いたいことがあるから小説を書くなんざ邪道も甚だしい。つーか創作におけるエゴとか作家性なんてもーどーでもいーよ。我らは出会ってしまった圧倒的な物語を前に、屈するように物語を描くべきなのではないの? 自分なんて透明に透明に。人間なんてちっぽけなんだし。世界は人間よりは遙かに広いのだし。題材の選択の時点で作家性なんぞもうとっくに果たされてるんだしさ。…まあこれは考え方の一つにすぎないけど。