始まりと終わり、そして一貫した個性〜ギャルゲーメソッド概論(TRPGと物語(v))

■物語を物語たらしめるには制約がある、そしてそのことをうまいことシステムが代行していくことを考えると面白いかも、という趣旨で続いている当論考みたいな。システムをベースに探っている故に葛藤とリズムをやたら前面に押し出しているが、物語の制約はもちろんそれだけではない。*1

■わりと大事だなー、と思っているのは、始まりがあって終わりがあること。あたりまえじゃん、というなかれ。これがどのくらいリアルじゃないかを理解してくると、物語のリアルとかリアルじゃないとかを語るのが基本的にはナンセンスなのがよくわかる*2。ついでに言うと、書き慣れるまでは、いや書き慣れてきても、始まりがあって終わりがあるという事実に結構苦労させられるのだが…。*3でもTRPGのシステムは原則として、セッション単位では、始まりがあって終わりがあることはあたりまえ、ではある。もっとも、クライマックスフェイズ、というルールがあるシステムは、とくにこの点を意識的にルール化したというあたりに、物語的展開に対する認識を感じる。

■もひとつやっぱり大事だなー、と思っているのは、何らかの一貫した背景/視点があること、だろうか。プレイヤーキャラクターが一貫した視点、であればいいとして、一貫した背景というのは、TRPGではけっこう苦労する人も多いかも知れない。たとえば神林長平の世界のように、世界自身がダンスする作品だって、世界自身がダンスするからこそか、きちんとした一貫したトーンがある。これは基本的には文体、よーするに、リズムの問題である。そしてこの側面からシステムがプレイヤーを援助するのは、ある意味で当然の責務である。

■けれど、TRPGのように関与者が複数化してくると、もうちょっと手に触れられるものがほしくなってくる。それは一つには背景世界であり、もう一つにはセッション中に登場するNPC(ないしはそれに付随する存在)の性格描写だろう。前者にせよ、後者にせよ、一貫した、というのが大事である。台詞の演技がうまいとか、街の背景描写が詳細であるかなんて言うのはどうでもいい。たとえばある女の子A子ちゃんを描写する際。

  1. 違うシーンに登場しても、プレイヤーが同一人物であるのを即座に認識できること。
  2. とくにプレイヤーに影響を与える行動をとった際、やり方、パターンなどがA子ちゃんのキャラクター性としてプレイヤーが受け取ったものを裏切らないこと。
  3. そして、裏切るなら、秘密と理由をきちんと持っておくこと。それが、わかる人にはわかる、くらいの明示性をあらかじめ持っておき、プレイヤーがそれに触れる機会を持つことが許されているならなおよい。

(ちなみに対象は、人じゃなくて、場所とか、国とかであってもよい。)

■かーんたんに書いているけれどことはそんなに簡単ではない。っていうか、これができるなら、プレイヤーの半数以上に好まれる*4キャラ・場所・国を、一貫した世界できちんと生きさせ、それをプレイヤーキャラクターと積極的に絡ませる、だけで“物語性を持ったセッション”なんてふつーに完成する。

■この、絡ませる、というやり方に、セックスや恋愛を中心においたのがいわゆるギャルゲーである。『ときめきメモリアル』なんかにとくに特徴的なのだけど*5、ギャルゲーの一部では、女の子と主人公の関係性に、特にあらかじめストーリーが指定されているわけではない。パラメータの変化や、特定イベントを“見つける”ことによって、女の子の人となりが明らかになり、その積み重ねにより親密度とやらが上昇し、女の子についてのより深い内容が明らかになっていく、というだけの過程である。たしかに最終的にはくっついたり、ややこしい人間関係が始まったり、いろいろ“物語的結末”が用意されていることが多い。けれどその過程は、順序も出会い方だってプレイヤー次第であるし、筋が必ずしも用意されておらず一定でもないのに、プレイヤーは物語であると感じるのである。

■おそらく、TRPGにおいて目指すべき物語性は、このようにプレイヤーに発見されるもの、意地悪く言うならプレイヤーが勝手に物語として誤解するもの、としての物語であろう、と思う。一貫した個性を描けるほどに成熟したマスターなら、最初の引きだけを用意し、あとはエンディングはプレイヤーに任してしまうことで、ゲーム性ともほとんど矛盾しない“物語”を生成できるだろう。ギャルゲーばっかり書いてるけど、その対象は国や場所、人々、ダンジョン、事件、歴史であってもいい。

■このあたりのもろもろを「ギャルゲーメソッド」というふざけた名前でまとめ始めたのは、月夜埜綺譚を仕上げ始めた頃だった。システムを作るためには、システムにあったシナリオ記法を作らなければならない、という発想は悪くなかったと思う。もっとも月夜埜綺譚においては、システム用のシナリオ記法に完全に昇華させることはできなかった。一つには、いまだにこのギャルゲーメソッドを使いこなし切れていないせいなのだろう。やっぱり言うほど簡単じゃないし、人気のあるギャルゲーのキャラクターはやっぱりすごいね(笑)。

■ここで別にある文脈に沿って一本筋のストーリーでもいーじゃねーか、と思われる向きもあろうかと思う。それがGMの楽しみだって人も。けれど、ここにおける“物語”の価値は共有されてなんぼなのである。それを一本筋のしかも創作ストーリーで語り出すなんて、選ばれた人が一定の訓練を経て初めて可能になることだと思うべきだ。もちろん、そこまでじゃないのをおとなしく聞いてくれる人はそれなりにいるんだろうけど。

■逆に言えば、そこまでじゃなくても、TRPGをきちんと使えば共有可能な物語をやれるんである。それは、TRPGに物語なんてナンセンスだぜ、とか言っている方々の仰る意味の物語とはちょっと違うものになっちゃってるかも知れないけれど。でも僕はこういうところに出てくる“物語”にやられちゃって、今でもTRPGやっていたりするわけで。

■さて、葛藤とリズムの話ばかりしていたので、ちょっと“一貫した個性”という今までに出てこなかった部分の話をした。実のところこれは、葛藤の持つ様々な内訳につながってくるのだけど…。

■以下、つづく。

*1:今回、注釈でちょっと遊んでます。読みにくくてごめんなさい。

*2:僕が何度か読んだ『心臓を貫かれて』という陰鬱なノンフィクションでは、おそらくそれが事実を描いていることを強調するため、そして強調せざるを得ないことを自覚しているためか「…けれど、現実はここでは終わらないのだ。」という文面が幾度か現れる。人の耳に聞こえのいい話であるだけでよいなら、きれいに始まりと終わりを決めて、気持ちのいいところで終わりにしてしまえばいいのだ。…この主張は痛切である。けれども読者は、読み終わることによってその場所から逃げられる。おそらくフィクションにおいても、ノンフィクションにおいても、終わる、というその一事はどこか救いを予感させる。

*3:「僕はプロですから、必ず終わりが来ます」と言い切った村上春樹はすごい。複数の意味で、すごい。

*4:憎まれる、でもよいが、ともかく共通した共有可能なパッションを複数のプレイヤーに与えられる個性を持つ、ということ。

*5:他に代表的なところでは『ガンパレードマーチ』『まぼろし月夜』、それからこの形式の元祖『プリンセスメーカー』あと『同級生』も外せまい。え? 古いのばっかりって?