気づく、ことの話

http://blog.livedoor.jp/lissehwestlambe/archives/50118859.html

■リンク先の記事を読みながら、そうだ! そうだぁ! と思いつつ、でもこれはそんなに一般的なとらえ方じゃないのかしら、と恐れつつ、いろいろ考えていました。僕が勝手に“TRPGをめぐる精神論の師匠”とあがめている人も、RPGが“気づき”を交わすゲームであり、そのことこそがRPGがしあわせを生産していく重要な仕組みである、というようなことを仰っていました。そして僕はかつてその言葉を聞いて、やめかけていたTRPGの魅力の奥深さに“気づいた”のでした。

■しあわせなセッションの舞台では、さまざまな気づきがめぐりめぐります。課題に対する解放を巡る気づき、人物観察の気づき、それぞれのPLやGM自身の美徳や人間らしさに対する気づき、様々な正義、悪の魅力、そしてしばしば訪れるGM以上にシナリオの本質をつくPLにセッションを構成してもらえるというGM最大の喜び。もちろん幸せなことに気づけるばかりじゃないかも知れないけど、気づきを交わすとき、TRPGセッションの舞台はなにやら初めて創造的な感じを受けます。シナリオのオリジナリティごときは、その気づきを交わす興奮に比べれば、なんのことはありませんでした。

■僕が「物語やるTRPG」に執着しているのは、一つにはこの世界にまだ満足のいくモノが見つけていないからですが、それはそれとして、気づきを交わすためのその材料として“物語”がすっごくよい題材になるんじゃないか、と思っているからでもあります。人それぞれの物語、共有されることを願って描かれた嘘話、それを語り出す人々。いろんな人の物の見方に気づいていきたいし、自分という最も身近な他人のいろいろなことに気づいていきたい。って言葉にしちゃうと、くさすぎるんだけどさ。

■まあもちろんシステムができることなんて、とくにアマチュアのシステム作りができることなんてたかが知れてるんだろうけど、それはそれとして、いろんなものを気づいていけるゲームを作れたらなあ、と願っていたりします。