戦争のこと

■『夕凪の街桜の国』の話を書いて戦争の話を投げっぱなしにするのも、なんだかと思ったので軽くメモ書きしておく。その日付にどれほどのくだらない政治が流れていようが、終戦は記憶を巡らせる一つのヒントなのだろうから。もう過ぎちゃったけどね。

■言うまでもなく、僕のような若造に戦時体験があるはずもなく、戦争というのは、神妙そうな顔をして大きな口を開けて「へーそーですかぁ」と聞くが関の山である。敬愛する『夕凪の街桜の国』や『本当の戦争の話をしよう』を読んでみたところで、これを読んで戦争のことをわかったような気になってはいけないんだろうな、と思うばかり。わからない、というところに、現実の重さへのぎりぎりのこだわりを持ってはおきたいところではあるが、わからないこと自体をどうにかすることはできない。

■ともあれ“戦争を伝えるということ”なら全然わからないでもない。戦争によって“誰かに伝える価値のあるほどものすごい体験をする”ことと、“誰かに戦争から得た価値あるなにかを伝える”ことの間に、ほとんど相関はない。どれほどものすごい経験をしようが、うまく伝えられないままジジババの繰り言になっている例はいくらでもある。ましてやそれを政治的に利用する連中があおったり脚色すればなおさらだ。…そして価値のなくなったそんな語り口の中から、本当にあったはずのいろんな物事は抜け落ちていく。一方で、戦時体験なんて何もない人が、本当に価値のある“本当の戦争の話”を誰かに伝えることもある。

■「それは本当のことなのか?」それに対する答えが胸に来る物であったら、それがたといどれほどの嘘話であっても本当の話だ、という。それがなかったら、どれほど本当にあったことだとしても、それは真っ赤な嘘だ、と。

■ところで僕は街マニヤなのである種の感覚は妙に鋭敏である。その目でみて、暮らしている川崎の街や、東京、多摩、横浜なんかを歩いていて、そこに“戦争”を見つけることは本当にたやすい。とぎれた道、奇妙な曲がり角、かつて赤線と呼ばれたさびれた歓楽街。すべてが戦争という縦糸でつながることを見て取ったとき、そしてそれが、街好きの感覚にはいとも簡単にあけすけと見えることを知るとき、戦争というものの巨大さを思ったりする。目を曇らせてみない限り、別に靖国神社になんか行かなくたって、我々は未だ終わらぬ戦争の中に生きている。軍備増強なんぞを簡単に口走る人たちは、私たちの住む街が60年も前の戦争にどれほど浸りきっているか、知っているのだろうか?*1 …まあたぶん、その場所に住んでいる人をのぞけば、街好きなんていうマイナーな趣味を持たない人にはわからないことで、僕自身うまく伝えるすべがない。そして、他の見方をする人々の中に、様々な戦争が息づいていることもあるんだろう。

■戦争は悪である。けれどそれを言い切っていればいいほど世界は単純でもなくて、事実、私たちの国はそれなりに戦争のリスクの中を生きている。それと向き合いもしないで叫ぶ平和なんてほんっとにただの絵空事だ。ほんとに何かを伝えることはムツカシイ。…けれどそれと同じくらい、本当はつたえることのできないたくさんのものがある。たとい何も役に立たないとしても、とくに“戦争”について、語り得ないものが確かにあることを、思っていたい。思う。

*1:別に賛成とか反対とか関係なく。たしかに某国との関係は“臨戦”に近いし、軍備がなければ通らぬ道理もあるのだろう。けれどたとえば軍備が、本当にどういう物なのか絶望的なまでにそれを知っていて、あなたは戦争について言葉を吐いているのか? というのはよく思うことであり、そして自戒するところでもある。…つまり私たちの手はそんなつもりなんてなくても、いつだって血にぬれている、と言うことを。