TRPG的自分の痛さ(TRPGと物語(ii))

TRPGなんてキモい連中しかしない趣味なんだよ、なんて言われても、それが本当のことだったとしても役に立つ感じがしない。TRPGをやっている人は傷つきやすい人なんだ、っていわれても、人は傷つきやすいもんだし、TRPGをやっている人がその他の層に比べて有意に傷つきやすい割合が高いと言うことはないと思う。TRPGをやっている人が寂しい連中なんだ、なんて言うような変人が現れれば、尊敬していたゲームメーカーだったある人の言葉を引用しつつ喧嘩を売っておくくらいのものだ。

■人は誰だって孤独なものである。孤独であることが当然なのであり、それを病だ何だというのは誤りである。…つーかそのくらい、わかれよ(w

■ま、そんなことはどうでもいい(w そんなことも言われてもぜーんぜんこたえないし、最近はTRPGも裏街道突っ走ってるから、そういうことも言われなくなった。よーするに、そういう意味での「痛い」はどーだっていいのよというまえふりである。

■個人的に、TRPGをやっている自分で痛いなあ、と思う瞬間は、だいたい以下の一つにまとめられる。

■人の話をちゃんと聞かないとき、である。…細かく分析していくと、自分の性格はさておき、TRPGの魅力と難しさがいろいろと見えてきて面白い。

■たとえば僕はマスターをやることが多いのだが、“話を聞かない”代表的なシチュエーションは、他人を気にせず吟遊詩人GMをやっている瞬間である。一見、話を聞いたり、行動を採用したりしていても、最初から結論を決めうちして認識をずらしていく。ずっと語り続けてなんていなくても、人の言葉を手前勝手に聞いていれば吟遊詩人はできるのである。ましてや最初から“すばらしいストーリーとやら”を用意してやるなんて、この誤謬を自ら招いているようなモノで、アウアウイタイイタイというもの。

■プレイヤーをやってるときもまあ同様だけど、だいたい自分的に“美しいストーリーとやら”がシナリオ中に見つけ出せたときに、他人の行動を曲解し、結果的に命令していくあたりなんかに、そういうイタイイタイ時がある。まあもっとも、こういうプレイヤーはマスター的には助かるので、痛さが表に出なかったりすることもあるのだが、そんなプレイばかりしていると、友達をなくすだろう。
(もっともそんなふうにプレイしていて、関係を崩さないままに、他のプレイヤーと戦えれば、とても幸せなセッションといえるかも知れない。)

■ぶっちゃけていって(この言葉もあれだなあ)、現在のTRPGにこの人の話を聞かないプレイを誘発するような成分があるような気がしてならない。そこは、たぶん“物語”に依拠するのではないか。

■物語を作ることは制約が多いが、それは主に共有にからむ問題として現れる。ま、ようするに自由に作るのは簡単だけど誰かに読んでもらうのは難しい、ということ。葛藤もリズムもいらないし、言語を使う様々な約束事だって無視したって物語風のモノは作れるが、それが“物語を読むという共通認識”にアクセスできない限り、それが読まれることはない。その制限はTRPGでも全然変わらなくて、物語りやろうとすると結局その制限にぶち当たることになるわけだ。これは結構大変である。

■それなのに、一見、共有される。一見、なのだけど、それはルールのチカラである。ルールを遵守し、ある程度の約束事をプレイヤー間で共有することで、TRPGのセッションは制約…リズムと葛藤…を手に入れ“物語”へと近接していく。物語を作るのは気持ちいいことなのかどうかは、まあ議論の分かれるところでもあるけど、そこにたまたま幸せな偶然を見た人が、ときおり勘違いする。

■“自由な物語”を作るためにはルールは邪魔だ、とか、まあいろいろね。

■ここまできて、もちろん個人のスタンスや、物語を巡る甘い夢にまでどうこう言うことはできないのだけれど、それにしてももっと意識的にTRPGと物語を向かい合わせるのは面白いアプローチかも知れない、と逆説的に思ったりもするわけだ。

■つづく